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【風水】風水の歴史と名称・由来について

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こんにちは、若美貴櫻です。

今回は、風水の歴史についてです。

 

風水の歴史

 

風水の歴史については、風水理論などに関係する歴史的な出来事、人物などについてだけ簡単にまとめます。

参照:「堪輿学原理(かんよがくげんり)」(南海主人)

 

第1期(前漢から東晋まで。紀元前206~紀元後420年)風水学草創期

 

この時代には、相宅・相墓術という名称が使われ、風水学は一思想体系としてすでに位置づけられていました。

以下が代表的な人物です。

  • 管輅(かんろ)
  • 郭璞(かくはく)
  • 淮南子(えなんじ)

 

第2期(唐代から南宋まで。618~1279年)風水学全盛期

 

この時期に風水学は学術体系として整えられ、二大流派の「巒頭派」と「理気派」に大きく分かれ発展を遂げています。

その理由としては、唐代末期から南宋に至る激動の時代には、人は皆吉に赴き、凶を避け、禍を畏れ、福を求める心理が強く働いたためではないかと推測できます。

 

そして、その要望に応えるように多くの術者や風水家を輩出しました。

四大名家といわれる代表的な人物は以下です。

  • 楊筠松(よういんしょう)
  • 曾文瑞(そぶんせん)
  • 寥金精(りょうきんせい)
  • 頼布衣(らいふい)

 

第3期(元代から清代初頭まで。1279~1661年)風水継承期

 

この時期は風水学が更に発展し、継承されていった時代。

明代の代表的な人物は、劉伯温(りゅうはくうん)で、朱元璋(しゅげんしょう)の軍師として明の建国に力を尽くしたことで有名な人物です。

明代の徐善継・善述兄弟の共著「地理人子須知(ちりじんししゅち)」も有名です。

 

第4期(清代から現代まで。1662年ごろ~)風水学衰退・転換期

 

清代の康熙帝(こうきてい)の時代の頃から、徐々に風水学が批判されるようになります。

梁啓超(りょう けいちょう)「清代学術概論」などの考証学書のなかで、唐代・宋代に構築された風水学を含む易学的形而上学は弁証法により明確にできないとの理由で否定された。

 

風水の名称

 

清朝以前 (1683-1895年) は、風水という名称は少なく、主に「堪輿(かんよ)」「地理」「地術」などと呼ばれていました。

堪輿とは、「堪は天、輿は地なり」という意味が含まれていて、本来は日選びに関する占術の意味で使われていました。

 

当時は、堪輿家とは人を葬るべき地を占い求めることを専門とする者として認められていたようです。

 

地理は、山水の地勢、地形及びその動静の意味であり、有機体的大地観という考えがあります。

大地と人生との関係を直接なものとして観察し、地術は、言葉の通り、地理の術の意味です。

地理は、まさに地相によって観察しなければならないとされています。

 

風水の言葉の由来

 

風水の言葉の由来は、晋代に登場した葬書(葬経)によるといわれています。

 

この書は、郭璞(かくはく、276-324年)によって書かれ、風水の根本的な原理、理論を体系的に伝えた貴重な古典文献です。

唐の玄宗皇帝がこの本を献上された際に、皇帝が錦の袋にいれて、書庫の奥深くにしまい込んだという逸話から、 別名を錦嚢経(きんのうきょう)とも呼ばれています。

 

そして、風水の言葉の由来といわれるのが次の文章です。

 

「気乗風則散 界水則止 古人聚之使不散 行之使有止 故謂之風水 風水之法。得水為上、藏風次之」

 

読み下し:

気は風に乗ずれば散じ、水に界てられれば即ち止まる。
古人はこれを聚めて散ぜしめず、これを行いて止めるあり。
ゆえに、これを風水という。
風水の法は、水を得ることを最上とし、風を蔵え ることはこれに次ぐ。

 

大意:

風は、地中から発生する生気を散らすので、その風をうまくたくわえ、水を得ることによって、風水の目的が達成されます。
そこで「蔵風得水」の必要性が生じるということです。

 

 

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